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小黒部鉱山(池ノ平・モリブデン鉱山跡)探訪記

黒部峡谷には、僧が岳等も含めて、いろいろな鉱物を産出しており、その時の名残があちこちに見られる。
産業歴史の遺産になると思えるほど、すばらしいものがある。
観光資源にもなるかもしれない。
これから、こういうところも視点において、故郷にある素晴らしいもの、ところを見つめ直したい。

この池の平という素晴らしいところを訪ねる機会があり、皆さんの地域にもひょっとしてこんなところがあるかもしれないとふるさとを見直してもらうきっかけにもしたいと考えている。

“小黒部鉱山”と呼ばれても、それがどこなのか分からないだろう。
山歩きのベテランには“池ノ平小屋”ならば分かってもらえるはずだ。
それほどの場所、登山基地である。
皆さんに知ってほしいので、簡単に紹介する。

『池ノ平小屋』は剱岳の北東、小黒部谷を登り詰めた、池ノ平山と仙人山の鞍部・標高2,050mに位置している。
前身はモリブデンを掘っていた小黒部鉱山の作業基地で、鉱山事務所や飯場として活用された建物であった。
モリブデンは戦略物資と呼ばれ、戦争が始まると需要が高まり、大正、昭和の世界大戦時には国を挙げて採掘されたようである。

その頃、池ノ平山(2,561m)を中心にモリブデンを含有する輝水鉛鉱が発見され、わが国最大のモリブデン生産地となった(大正7年には全国生産量の約76%)。
第二次大戦後鉱山は閉山となり、事務所の管理は山岳関係者に譲られ、一時は魚津高校山岳部が管理した時代もあり、現在に至っている。

現在の管理人は『菊池今朝和』という方で、鉱山研究に熱心な人で、ここモリブデン鉱山について周辺一帯の調査を行ない、成果について報告書を発表されている。

今年9月、池ノ平小屋を訪問したとき、菊池氏のご厚意で坑内の案内を受けた。
今回、そのときの感想を述べる。

2.モリブデンの物性(比較として “ 鉄 ”)
元素記号: MoとFe
原子番号: 42と26
原子量 : 95.94と55.85
比 重 : 10.と7.86
融 点 : 2620℃と1536 ℃
沸 点 : 3700℃と3080 ℃
産出:輝水鉛鉱、黄鉛鉱として産出。銀白色の金属。
用途:硬いので鋼に加えて高速度鋼製造に用いる。モリブデンに加えた特殊鋼は硬度と引っ張り強さが大きく、磁石・弾丸・刀具など、近年はタングステンとともに照明用、高温用電気炉の電極や発熱体などに広く使用されている。

ここでは、項だてを記す。
3.小黒部鉱山の歴史
モリブデンは、前項で述べたような特性から戦略物質として需要があり、第一次世界大戦前後(大正元年~同9年)に盛んに探鉱・採掘が行われるようになった。
産出県は島根、富山、岐阜、福井県で、
小黒部鉱山の産出量は、大正5~7年の3年間で17トン(全国第1位、全国生産額の過半数)。
採掘された輝水鉛鉱は、人の背に担がれて小黒部谷を下り、その後大窓を登り、白萩、馬場島を経由して北陸本線・滑川駅まで運ばれた。
滑川まで運ばれたモリブデンは、東京北区赤羽飛行機製作所(経営者:岸一太)に運ばれ、「つるぎ号」という飛行機のエンジン用シリンダーの合金素材として使われた。
同鉱山の基地となって事務所や飯場として使用され、時代を経て現在は池ノ平小屋として登山用宿舎となった。

4.奥剱・池ノ平周辺の地図
5.池ノ平周辺で採取したMo原石の定性分析結果
6.池ノ平周辺で採取したMo原石のサンプル
7.坑道見学・・・・(写真)
8.剱岳周辺の写真・・・・ (剱沢周辺、池ノ平周辺、)
(サクラワークショップ能登)
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栗の木(物語編その2)

 むかし、承和2年(835)仁明天皇のころ、若栗の東方にある黒部山のかなたから一かたまりの雲気(雲や霧の移動)があらわれては、その瑞雲(めでたいしるしの雲)がこの地をさしてくるので、
 「これは神様のことわりであろう。」と天子様にお伝えしたところ、
 「この地を開墾すれば、居村の幸福になる。」と知らされた。
 一同歓喜しあい、八体の神様をまつり、開墾に励んだけれど、原野渺渺(広々と果てしない様子)としたうえに、神代から大きな栗の木があった。
 栗の木の高さは、500尋(500メートル以上)もあって、その影は、朝日がさすと新治(にいはる)の果て(生地の方)まで、夕日がさすと三味(さみ)の郷(舟見ふなみ)までとどくほどで、植えた作物は実らず、とうとう切り倒した。
 すると、その後から数万本の栗の若芽が生え、繁茂したので、承和9年(842)、村の名を若栗と改めた。
 ところが、天慶(てんぎょう)年間(938~47)黒部川の大洪水が起こり、挙村冠水のために三体の神様を流出し、残る五体の神様を大越山に移し、熊野神社と称してきた。
 世はくだって、応安年間(1368~75)、足利時代に当村の城主不悪凡斎右京輔(ふあくぼんさいうきょうのすけ)、続いて土肥監物らはすこぶる人望があり、村は栄えていたが、天文18年(1550)6月、上杉謙信の兵火にあい、落城、大越山の社殿もことごとく打ち破られて、わずかにご神体だけを守り、以来、数百年一小祠(しょうし)にまつってきた。
 上杉勢と戦った城主の妻女(女の侍大将といわれていた)の勇壮な奮戦ぶりの悲話は、今に語り伝えられ、城跡は黒部市の文化財に指定されている。
 さて、時代はくだって元禄年間(1688~1704)、徳川時代に黒部川の洪水が村の中央に流れ込み、村を数村に分割してしまった。
 分割されてできたのが小摺戸村・一宿村・若栗新村などというから、今流れている黒部川は、このとき以来の形をとどめていることになる。上流の浦山、下流の荻生・大布施・村椿・生地もこれと同じように分割され、今の形になったのである。
 そして、正徳(しょうとく)年間(1711~16)、中御門(なかみかど)天皇のとき、お越しされていた大越山の五体の神様を今の地(西蓮の地)に社殿をつくって遷座し、五社大神と称していた。
 のちに、中古の社号をもって若野(埜)社と唱え、今日まで災禍をまぬがれてきた。
 原野渺渺たる中にそびえていた栗の大木をきったことが災禍を招く因果ともなったようだ。ところが、若栗の村民、この災禍にもめげず五体の神様を守り、社殿をつくっておまつりしてきたことが今日をあらしめたのである。世はまさに、あざなえる縄のごとしである。
(出典:金沢市立図書館所蔵『越中国古文書』による)

ぜんねっさま(善念寺)の柿の木(物語編その1)

 むかし、蓮如上人という偉い坊さんが、仏教を広めるために福井県の吉崎から石川県を通り倶利伽羅に来られたときのことである。
 ここに住んでいた岩田善太郎という武士の家に、上人様の付き添いの弟子が入って、
 「昼飯の残りご飯でもめぐんでいただけないか。」とたのんだ。ところが、
 「坊主などに与えるご飯などないわ。」と言って断った。
 それでも再三お願いしたら、しぶしぶ粗末な残りご飯を出して食べさせてくれた。
 そのことがあってから、ある年のこと、加賀の二俣に偉い坊さんの説教があると聞いたこの老夫婦が、はるばるたずねていって、その坊さんの顔を見るなりびっくり。それは、以前残りご飯を出して与えた坊さんだった。
 老夫婦は大変おそれいって、過ぎし日の無礼を悔い、心から謝って、この坊さんの弟子にしてもらった。
 そして、岩田善太郎は「覚円坊」の名をもらい、妻は「妙善」の名をもらい、上人様が植えられた柿の木の育っている若栗の中坪に寺を建てた。
 この寺が今のぜんねっさま(浄土真宗お東の善念寺)である。大永年間(1521~28)に建てられたともいわれ、文明14年(1483)に建てられたともいわれているから、約500年もむかしのことになるが、とにかくこの寺に植えられた柿の木が、北を向いて茂り、田の陰になるので、地主が、
 「申しわけないが、この柿の木、ジャマになるので切らせてもらえんもんか。」とたのんだ。
 寺では、「それほど陰になって、ジャマなら切らっしゃい。」と返事されたので、早速、次の日の朝、のこぎりなどをもって行ってみると、柿の木が東を向いていた。
 「これじゃ、田にも道にもジャマにならんから、切るのをよそう。」と、そのままにしておいた。
 それから、いつの年か大風が吹いて柿の木が倒れたけれど、そのままにしておいたら、5メートルほどの幹が4か所で根づき、幹から伸びた4本の枝が幹になり枝を茂らせ、二種類の柿をならせるようになった。それから村の人たちは、この柿の木を「寝てなる善念寺の柿」というようになった。
 今も善念寺入り口左手鐘堂の横に、倒れた幹の長さ約5メートル、幹回り60~117センチメートル、樹高約10メートルの柿の木がむかしを偲ばせている。
 むかしはこの柿の木の北側に、三日市から愛本に行く道があって、旅人や通行人が、この柿の木に腰掛けて一休みした。
 (出典:若栗村誌)

観光資源見直しとその取り組み

黒部まちづくり協議会のブログページを見ていただいておられる方、また、イベントや取り組み等の生地を見てくださる方に、感謝!

このような質問がありました。

「黒部の観光資源というのなら、市内にも山城の史跡があるのですが、
そのことにふれるほうが観光資源の発掘になるのではないでしょうか?」

事務局サイドからの回答です。
少し丁寧に回答する必要があると思います。
「観光資源」をどのように取り組んでいくか、また、まとめ、活用し、発信するか、難しく、悩むことが多いものです。
しかし、まず、歩いてみようと、一歩進むことにしました。

「観光資源」だけでなく、このブログを管理する立場から、大きな方針もあります。
まずは、まち協の取り組みを紹介し、会員に案内をするといった発信です。
ワークショップやプロジェクトの取り組みや案内なども載せています。
時や場合によっては、ワークショップなどのグループや管理者の個人的な思いで表現する場合もあります。

グループの中でいろいろな意見があって当然ですので、私たちも是々非々で対応していきます。

次に観光資源のことです。
かつて「黒部市観光資源調査委員会」でまとめた報告書があります。
今、観光資源について、どのようにまとめていくかを、この報告書をもとに基本的な方針ができました。
項目として挙げられたものに、まだ、追加が出てきていますが、まず、できる項目から進めています。
もちろん、ここには、山城、館などの項目には、魚津のものはありません。
そこが、行政と民間との姿勢の違いでもあります。
項目には、名前(正式名称や地元での呼称)、説明文(日本語と英語、中国語など)、写真(複数、新しいものと古いもの、季節ごと)に加えて、地図を掲載する、というものです。
いずれ、Web上でデジタルアーカイブを構築し、撮った写真を送ってもらう計画です。
ウィキペディアのようなもので、コメントを作っていくことも検討しています。

「黒部の観光資源」と黒部という言葉からすると、黒部だけになりがちです。
しかし、実際に他市町村から、あるいは地元の人間にしても、「この地方・地域」の情報がほしい、あるいは関連して知りたい、ということが多くあります。
黒部や魚津という行政区画で区切って、観光資源という内容を初めから制限しないようにしています。
観光資源の対象は結構広いものがあり、一つ一つを調べていくと、ひとまとまりとして考えていこうということが多くあることに気づきます。
大体、今の行政区画というのは、それほど古いものではありません。
私たちの調べ、提案する観光資源は、平安、鎌倉、足利期にさかのぼるものが多く、観光資源の対象とその範囲を決めていかなければならないことがでてきます。

山城というのは、調査が行われ、歴史資料や古文書等でも整理されているようですが、一般の資料として目に触れることがあまりないので、探すのが一苦労です。
関係者で収集しているところです。
投稿者も「山城」などに関心のあるようですので、資料がありましたら、教えてください。
興味関心のある方の協力をお願いいたします。

そんなことなど、今、地道な資料収集と実践活動に動いている人(あまり多くないのですが)を応援してくださいますよう、お願いします。
(「黒部の観光資源」調査グループ事務局)


山城「松倉城」

黒部の観光資源をまとめる中で、どうしても魚津の山城に触れなければなりません。
昔は、この一帯と現在の行政区分とは一致していません。
私たちまちづくり協議会の多くのメンバーも、黒部だけという方は少ないと思います。

北日本新聞が今月9月23日(金)から「魚津山城めぐり」として浜松聖樹記者が記事を書いています。

山城は主として戦国時代に発達している。そして、山城は、単独でその力を発揮したものではなく、山城同士が連携をしあって、その力を十分に発揮するようにしていたという。だから、通信手段としてののろしだけでなく、山道も整備し互いに兵士が行き来できるように工夫していた。

それが、徳川期になり、次第に山城を廃するようになっていったのも、治安、治政のためだ。
山城が多いにその役割を果たした戦国時代は、この松倉城はどんな状況だったろうか。

上杉勢と佐々・豊臣勢との戦いがそのピークになるだろう。
松倉城は、上杉景虎が攻めあぐねた城である。
魚津は山が海岸までせり出しており、谷も多く、守りやすく、攻めにくいといわれる。
その中で、松倉城(標高430メートル)は、20余りの出城や砦をもつ、大規模な山城だった。
戦国時代の山城は、自然の地形を生かした「天然の要塞」であり、山の斜面、崖、川を最大限に生かしてつくられている。
ちょっとして平地には、今もその名残があるが、郭の跡が見つかる。
本丸と言っても、私たちの想像する天守閣と言ったものではないようだ。

松倉城(上)の記事では、「戦国の山城」(全国山城サミット連絡協議会編)から引用している一文がある。

「山城の防御は敵に城に登らせないようにするのが重要で、斜面をできるだけ削り込み、急峻な斜面としていた。
手でつかめるような樹木は刈り取った。
外観は、はげ山を想像すればいいのかもしれない。
魚津は天然の要害を造るのに適した地といえる。
日本有数の急流である早月川と片貝川が流れ、平野部や台地のすぐ近くに小高い山がある。」

現在の松倉城は、ほとんど上まで車で行くことができる。
駐車場から急な階段(90段)を上ると、かつての本丸跡につく。
さすがに山城、400メートルを超えると眺めがよい。富山平野を一望できる。
さらに、もちろん能登半島もほとんど見える。
大体目のよい人が多かったというから、視力5.0なんて結構いたのだろう。
築城家がどこに山城を作るかと言ったときに、まずは、平地からどこがよいかと山を眺めるのだろう。
兵略家・兵法家が山城を攻めるといったときには、地勢だけでなく、いろいろな策を用いるのだろう。

丘陵を削った空堀や土塁も多く配置されていたという。
最大の空堀は、深さが約10メートルあり、垂直と思えるほど急だ。
松倉城には、本丸と二の丸、三の丸などがあった。
二の丸には武器庫、三の丸には米蔵があった。
松倉城下には、多いときには武士が3,000人、城下町としては繁栄時に3万人を数えたという。
歴史を辿ると、また、探れば探るほど、面白いことが見えてくるかもしれない。

発掘調査から、15世紀から16世紀の土師器(はじき)皿が出土している。
記録からは、鎌倉後期ほどまでさかのぼるそうだ。
この新川地方も、あまり古い建物はないし、史跡もないようだが、実際には結構あるので、これから焦点を絞って見つけるようにしていきたい。
石仏などからは発見されるかもしれない。

そんなことをいろいろと思いめぐらす一日だった。
(くろワン事務局)


プロフィール

NPO法人黒部まちづくり協議会

Author:NPO法人黒部まちづくり協議会
【黒部まちづくり協議会とは・・・】
黒部市に住んでいる人も黒部市で働いている人も各種団体も集まって、黒部について考え話し合い汗を出して、住んでよかったと思えるまちに、行ってみたい住んでみたいと思えるまちに、みんなで黒部を手創りしようとする集まりです。

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